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2008年11月30日 (日)

自主防災訓練

今日学区の自主防災の訓練が有りました。町内から6人ほど参加の要あり。我家からも女二人が出ましたので、私も孫の守がてら見学に行きました。倒壊建物からの救助訓練、Img_133440 人の蘇生訓練、Img_133640 放水訓練などがありました。最後に炊き出しのアルファ-米弁当が配られました。秩序だった訓練でしたが、やはり違和感を禁じえません。 これらのことは、いざとなれば専門家に頼るしかないことが多いです。本来なら町内のお年寄りたちを助けて、出来るだけまとまって広域避難所に向かう事や、町内や家庭に備えられている消火器の扱いに慣れる訓練等が求められると思います。私も過去何回か参加していますが、ある年の企画説明会の時に「地震の本番の時も同じように、自治連会長に○○町総数x名集合完了しました、と敬礼するんですか」と嫌味の質問をしました。 釣られていろんな人から疑問点、あほらしさの指摘が続きました。消防署の人が考える企画は敬礼、点呼などが中心になります。 関係者によるとその後大分訓練内容が変わってきたそうです。国の訓練にしても、首相がまっさらの作業服を着て、開始宣言してからはじまります。茶番劇は何とかならないものでしょうか。京都市長の「京都市は自主防災の組織率が高い」との自慢話をいつか新聞で見ましたが形だけの組織では何にもなりません。どこの町内でも、救助班、防火班等の名簿を届け出していますが、町内会長が勝手に書いて出しているだけで、ご本人はあずかり知らないのが殆どでしょう。最後に学区の消防団の放水訓練の成果が披露されましたが、よく訓練されています。確かな消防団の存在は、安心を呼びます。日ごろの活動に感謝しています。

2008年11月27日 (木)

クラス会

24日に小学校のクラス会をやりました。還暦の時は祇園の舞妓さんに祝舞を舞ってもらったり、盛大でしたが、それから早くも一回り。今年は六回目の回り年です。 この年になると、夫婦いずれかの体調が悪く、出席できない人がかなりありました。一方恩師は齢92歳Img_131340 ながら元気なお顔を見せていただきました。クラス会というものは皆さんもご経験の通り、他の会合とは違う趣きがあり、楽しいものですね。私は当番幹事だったので、無事に終わりホットしていますが、まだ写真送付などの仕事もあり、Img_131540 ブログは後回しになります。 さて22日の南禅寺界隈の追加話です。 天授庵の隣の南陽院はもみじはありませんが、無料で入れるので、庭を見ました。 杉苔と桔梗と白砂の対比が面白く写真を撮りました。その後近くの「植冶」の庭を楽しみました。抹茶を頂いてしばし休んだ後庭に出ました。人もまったく少なく、池の周りに配置されている紅葉の彩りもよく風情を感じました。名は「洛翠」。

2008年11月22日 (土)

天授庵のもみじ

今日 南禅寺山内の天授庵へ縁者の墓参に出かけました。 この時期に出向いたのは勿Img_130740 論ついでながらの紅葉狩り。Img_131140 ここの紅葉は京都案内のポスタ-などによく使われるほどに
真紅そのものらしい。 さてどのもみじの木がそれなのか判然としないまま帰ってきました。
が南禅寺の喧騒をはなれて静かに紅葉を眺められるお勧めのお寺です。 写真は方丈の前の庭と白塀越の紅葉です。行く途路、バスを三条京阪で降りてカレ-うどんが美味しいと聞いていたお店にはいりました。 普通の目立たない店なのに順番待ち。次から次と客が入ってくるのに驚きました。美味かった。 美味かったといえば昨日は我家の報恩講。 セイロで蒸し揚げた、出来立てのおこわを昼に食べますが、美味至極。 夕食、今夜の夕食と続来ますがまったく苦になりません。美味の極め付けが「なごり鱧」。錦で鱧を買い、今夜ははもしゃぶ、あすははもちり。堪えられません。はもは今年は11月末まで脂がのっていて美味しいそうです。錦も普通に歩けないほどの混雑でしたが、頭にきたのは帰りのバス。来るバス、来るバス皆満員で乗れず、結局東山通りまで歩いてやっとバスに乗れました。ム-ドに釣られて出かける我々京都人も悪いのでしょうが、折角の観光の客にこんな目に合わすようでは、もてなしの心ゼロといわれても致し方ありませんね。

2008年11月19日 (水)

蟹の季節

酷暑から急ぎ足で季節が移り、寒くなってきました。一週間単位で着るものが変わるような感じです。三回に亘り集団疎開の絵日記について書いているうちにも我家の恒例の行事や仕事は例年のごとく過ぎていきます。暇を見つけて庭の石洗いも。えべっさんに続き、報恩講は明後日。 仏具のお磨きも済みました。大阪の孫の七五三のお祝いにも行きました。12月に入ればまた障子紙の張替えです。さて今年も私の秋はまだ終わりません。外国産の松茸は何度か食べていますが、京に居るのに地場の丹波の松茸はいまだ口に入りません。松茸が安くなった頃に我家風土瓶蒸しを味わって秋が終わります。 秋が終わらないのに、今年もまた早くも香住から極めて格安の獲れ獲れの蟹が一箱届きました。地場で売れ余ったときに、その日に連絡が入り、明くる日の昼には届きます。 こんな伝があり、いとわず仲介してくれる知人に感謝。昨日は蟹酢、今日は蟹すきを楽しみました。紅葉もImg_128840 頃合になってきましたが、今日の夕刊情報では清水寺の夜間特別拝観が大人気で、入山の長蛇の行列で大混雑。 「将棋倒しの危険」を感じた人もとか。なぜかくも清水寺が人気なのか。今後経済の牽引力は観光と農業とか言われている昨今、結構な事ではありますが。 夏の終わりに大阪へ持ち帰ったザリガニが卵を産み、今小さい子供が一杯泳いでいます。子供用にもう一つ水槽が買ってありました。 写真は16日の七五三の日に撮ったものです。

2008年11月16日 (日)

集団疎開の絵日記3

終戦以来気分が落ち込むよりは、人心の安定と安心感がこの絵日記から読み取れます。先生方の京都への行き来や、京都からのお母さん方の慰問、面会も増えたような感じです。おやつにおちちとかかんぱんとかがよく出るようになり、おかずに「さけのかんずめ」等も登場してきます。おそらく京都はじめ都会では食糧難で大困難のころです。芋のつるを一杯持って帰ったり、芋の収穫をしたり。季節柄栗拾いも。柿も度々おやつに登場。さて私は経験しなかった「京都への行軍」が9/29日にありました。汽車に乗ってのいわば里帰り。 前日からワクワク気分で準備し、京都駅から家まで走って帰ったと。家で寝たうれしさも伝わってきます。 アメリカ人も見、じーぷも見たがもう「癪に障る」記述はありません。わずかの期間に子供の意識も変わってきたのを感じます。私にはその辺りの感覚はまったく残ってないので当時を思い起こすありがたい日記です。 日記は10/10で終わっています。くちょうさんのお話があったり、皆で万歳をしたりとありますから、最後のお別れ会だったのでしょう。 私も京都へ帰ってきたのは10月だったとの記憶は有りますが、そのとき京都駅で真っ白い粉(DDT)を頭から一杯かけられた記憶は鮮明です。わが家では父親は戦地にいったまま。 「二人の子供のどちらかが生き残るように」と母親が私を疎開にだしました。焼死、敗戦とかは国民は既に覚悟の上なのに、責任追及されるのを避けるために、終戦の決定を逃げ回った軍人(軍事官僚)のだらしなさ。決断がもう少し早ければ、集団疎開なる椿事も無く、南方兵士の無残、沖縄の悲劇、原爆惨事等はありませんでした。開戦の責任とともに、終戦時のあほらしさの検証はぜひとも国家事業としてやって欲しいもの。証言録、映像、音声等とともに、この絵日記は貴重な時代証言です。

2008年11月12日 (水)

集団疎開の絵日記2

8/15: 天皇陛下の放送は難しくてわからなかったが、あとから和尚さんの話によると天皇陛下は「臣民達にこれ以上苦しい思いをさすのは、かわいそうだ。自分の身を捨ててもよいから。」と仰せになったということです。うれしいやら、なにやらかんやらで胸がいっぱいになりました。8/17: 「京都にもアメリカ人がくるやろうな」(注;先生の話)私はもうしゃくにさわって、しゃくにさわってたまりませんでした。と。 子供ながらこんな感想を持っていたんですね。Img_128740 8/24には浴衣を着て盆踊りに行った様子が書いてあります。晩御飯にはおぜんざいが出ました。「おだんごは六つずつ、一杯半下さった。急に甘いのを入れたので、おなかはびっくりしているだろう」8/26には嬉しい「集団面会」の記述があります。京都からお母さん達が集団で会いに来てくれる日です。「お母さんがたがおふろをわかしてくださった。 集団疎開に来て始めてきれいなお風呂にはいった。久しぶりにお母さんにこすっていただいた。本当にすっとした」。  戦争が終わっても田舎ではあまり緊張感は無く、むしろだんだん穏やかな生活が戻ってきているように感じました。供出の必要がなくなったので、田舎では野菜などがある程度手に入るようになったんでしょうか。 食料の無い都会との違いでしょう。 垢こすりとともに、天気のよい休日に縁側に出て、二人一組で蚤(ノミ)や虱(シラミ)をつぶしあったのが思い出されます。 縁側で日に当たっていると暑さを嫌がって這い出してくる蚤や虱をつぶしあうのです。毎週休日の日課でした。遊び感覚でやっていましたが、いま思い出すと、涙を誘う経験です。京都にいる母親達が、慰問の食料などを集めて、数人で面会に来てくれるのが集団面会です。我々のいる寮(お寺)の近くの駅は荷物を扱わないので、一つ手前の亀岡駅までチッキ(切符に連動して発行される荷物受取券)を持って、荷物を大八車で取りに行った事が何回かあります。真夏の炎天下暑いが楽しい行軍でした。

2008年11月 8日 (土)

集団疎開の絵日記

私の友の姉さんが集団疎開の絵日記を遺されています。以前に見せてもらいましたが、今Img_127940 度改めて借り受けじっくり読んでいます。私は疎開経験者の中でもほぼ最小年者でしが、それでも記憶は今あやふやになってきています。 関係者の記憶の混濁なども激しく、聞き取り調査等も中止になってきているようです。私より2年上の方ですが、よくぞこんなに詳しく、克明に、根気よく書かれたものだと感服しています。まったく貴重な記録です。どこか公の機関でとり上げていただき、本として遺し、大勢の人に読んでもらいたいものです。 書かれていることが一つ一つ懐かしく、時に涙を誘いますが、今回は先ず食事について書いてみます。昭和20年7月15日」からこの絵日記が始まっていますが、大体朝食は「わかめのおすましとお漬物」昼食は「お漬物とお味噌」夕食は「ジャガイモのたいたん」とか「おなすのたいたん」等。たまに「野菜さらだ」とか「カレ-のお汁」とか。二週間後くらいに「おたまさん」が一度出てきました。動物性蛋白質は殆ど摂取していません。 ご飯は三食とも「
きびご飯」。8月になるとなぜか「きび小麦ご飯」とか「きび大豆ご飯」に代わっています。たまにおやつとして「お豆の炒ったの」「するめ二切れ」。時に先生手作りの「ジャガイモの蒸したのをつぶし、お砂糖の少しはいったの」。あまりのひもじさに逃げ出した人が多いのもうなずけます。 私は最年少で、高年者ほど食欲もなかったからかひもじさの記憶がありません。それでも、仕舞い湯を貰いに行った農家で、親指大、小指代のサツマイモを頂き
なんともこれが美味しかったのを思い出します。一般世間でも程度の差はあれよく似た状態だったのでしょう。今の日本の飽食、食べ残しなどを見聞すると、食糧危機、食料自給問題などはいわば贅沢問題。 飽食に慣れた人々の大騒ぎの感を禁じえません。地球温暖化阻止の為にも食料や資源の浪費は厳に慎むべき事。経済成長なんてもう過去の話。貧しさを分かち合う平等の政策が肝要。今回の世界不況は、有りもしない幻の成長路線の化けの皮が剥げた結果に過ぎないと私は思います。

2008年11月 4日 (火)

道後温泉

二日の日曜日から一泊で四国の道後温泉に行ってきました。岡山までは新幹線、そのあとは特急列車(といっても感じとしては準急並み、よく停まりました)。久しぶりの長列車旅。 わが世代(私だけかも知れませんが)は国鉄(いまJR)は汽車、私鉄は電車と呼んでました。汽車とは蒸気機関車の事ですが、電化されてからも私は国鉄は汽車と言っていました。Img_125540 写真は瀬戸大橋です。 上階の車道は何回か通っていますが、その下を電車で通るのは初めてです。瀬戸内海の海の上を走っているときには、こんな重たい電車がよく走れるものだと、いまさらながら技術音痴は驚きます。道後の温泉と松山の城は言わずもながの
「なかなかのもの」ですが、坊ちゃん、マドンナにちなんだ町おこしが相当効果を上げているのを感じました。「昔人間」はあまり町おこし等をされると気がなえますが、町が生き延びる為には必要だとは十分理解します。出かける前に漱石の「坊ちゃん」を改めて読んでみましたが、ビックリする程短文でした。あまり必要でない描写は一切なし。昨今の枚数を稼ぐ為だけのようなダラダラ文と大違い。 すぐ読み終えました。 マドンナといえば素晴らしい、憧れの君を思いますが、漱石はマドンナを好意的に書Img_126440 いてはいません。むしろ悪女と表現してもいいほどの描きようです。しかしマドンナの言葉だけが一人歩きをはじめ、才媛美女の代表みたいに扱われ、町おこしに大いに貢献しています。松山人の商魂もなかなかたくましいです。気の置けない人たちとのグループ旅行でした。あの「道後温泉本館」の横側からの写真を付けておきます。一泊旅行をすると、普段休日にやるべき仕事や、休日にしか出来ない仕事が出来ませんが、今回のように振替休日があり三連休だとその点ありがたいです。

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